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『舟を編む』:三浦しをん|言葉は海であり、辞書とは海を渡っていく舟である

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 辞書を作る。小・中・高校と国語辞典を使っておきながら、どうやって作られているのかを考えたことなど一度もありません。辞書は小説などと違い、その目的がはっきりしています。分からない言葉を調べるということです。同じ書物でありながら、異質のものです。 

  • 辞書を作るのが、どれほど大変なことなのか。
  • どれほどの労力を必要とするのか。

 そのことを、主に3人の視点から描いています。辞書作りを描くと言っても、作成するのは人間です。携わる人たちの成長や思いも、十分に織り込んで描いています。辞書作りに人生を懸ける人たちの情熱が、読めば読むほど伝わってきます。 

「舟を編む」の内容

出版社の営業部員・馬締光也は、言葉への鋭いセンスを買われ、辞書編集部に引き抜かれた。新しい辞書『大渡海』の完成に向け、彼と編集部の面々の長い長い旅が始まる。定年間近のベテラン編集者。日本語研究に人生を捧げる老学者。辞書作りに情熱を持ち始める同僚たち。そして馬締がついに出会った運命の女性。【引用:「BOOK」データベース】 

「舟を編む」の感想

締光也の物語

 馬締は言葉の意味を追求することに関しては、素晴らしく感性のある人物として描かれています。一つの言葉の語義をひたすらに紡ぎだす姿は、言葉に対して真摯な証拠です。辞書編集部の荒木が、第一営業部の馬締をスカウトするために行ったテスト。 

荒木:君は、「右」を説明しろと言われたら、どうする。
馬締:「ペンや箸を使う手のほう」と言うと、左利きの人を無視することになりますし、心臓のないほう」と言っても、心臓が右がわにある人もいるそうですからね。「体を北に向けたとき、東にあたるほう」とでも説明するのが、無難ではないでしょうか
 

 このように考えることが出来るのは、感性であり適性なんだろう。私には、決して思い浮かばない思考です。 

 「言葉」は当然のように存在し、常に身近に有り続けているものですから特別に意識することはありません。しかし、辞書を作ることは、その言葉自体を主役に考えていかなければなりません。一つの言葉を別の言葉で説明する。簡単そうに見えて、これほど難しいことはない。彼はひたすらに辞書編纂に取り組み続けます。同じ言葉でも、時代とともに意味が変わってくることもあります。また、使われなくなる言葉もあれば、新たに発生する言葉もあります。辞書編纂とは、決して終わりのない作業だと思い知らされます。終わりのない辞書編纂に取り組む彼のひたむきさが心に響きます。 

 言葉を説明する能力に長けていますが、自分を表現したり人に自分の思いを伝えることが彼にとっては難しい。どれほど言葉の意味を理解していても、それを伝える適切な言葉を表現できない。その二面性が、彼の個性を際立たせています。彼が香具矢に恋心を抱いた時に【恋愛】と言う言葉を辞書で調べます。恋愛を感じるのではなく、恋愛と言う言葉を考える。不思議な感覚です。ちなみに、作中では「新明解国語辞典 第五版」で調べています。 

特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと【新明解国語辞典 第五版】 

 妙に生々しい。読み物としても、辞書は面白いかも。  

 極めて特異な職業に焦点を当てていますので、マニアックな職業紹介的な小説になってしまうのではという気もしました。しかし、彼の恋愛を描くことで、小説に起伏を与えています。辞書編纂という遠い世界にいる彼を、恋愛と言う要素で身近な存在にすることで辞書そのものを身近に感じさせるようにしているのかもしれません。彼の情熱は、辞書にも恋愛にも余すところなく注がれています。ひたむきに生き続け努力し続ければ、必ず目標を達成することが出来ると思わせてくれます。  

西岡正志の物語

 西岡の物語が一番共感を感じました。一番人間臭く描かれているからです。彼は辞書に大きな思い入れはなかったが、配属になったからにはベストを尽くそうとする。人間関係に気を使い、辞書のこともそれなりに勉強していく。彼は、多くの勤め人が経験している人生を歩んでいます。全ての人間にやりたいことがある訳ではない。また、やりたいことがあったとしても、必ずしも職業に出来る訳ではない。全力かどうかは別にして、与えられた仕事に対し力を注ぐ。多くの人の人生の現実だと思います。 

 彼にとって幸せなことは、辞書編集部から宣伝広告部に異動になった時に次のように気付いたことです。

  • 自分は辞書が好きだったということ。
  • 自分の人生で大切なものは何かということ。  

 辞書編集部に在籍し馬締と出会ったことは、彼の人生にとって大切でかけがえのない出来事だったはずです。 

辺みどりの物語

 西岡が異動になってから、13年後の辞書編集部。辞書編集部と全く関係のなかった岸辺みどりが登場します。突然登場する彼女の存在の意味は、一体何なのか。13年後という時間の経過を感じさせるために登場させたのか。辞書に興味のない人間であっても、辞書の魅力に憑りつかれていく様子を描きたかったのか。 

 彼女が辞書に引き込まれていく様子などはあまりにも予想の範囲内で、意外性はありません。意外性を求めること自体が必要ないかもしれませんが。彼女は、伏線の回収のために登場させたのかなと感じる部分もあります。

  • 西岡の残した、馬締のラブレターの存在。
  • 馬締と香具矢の、その後の話。
  • 13年後の西岡。 

 物語を終結させていくために、登場させた人物なのかもしれません。   

最後に

 辞書編纂。あまり馴染みのない仕事に関わる人たちの人生を描く読み応えのある小説です。著者はかなりの取材を行い、辞書編纂を描いていると感じます。辞書編纂の仕事だけを描くのではなく、そこに関わる人たちの人生を描いているからこそ読んでいて引き込まれていきます。 

 彼らの人生はひたむきでありながらも、どこかコミカルな部分も多い。この小説の一番いいところは、負(悪)が登場しない。言葉の深淵さと美しさに特化した小説だと言えます。 

言葉は海であり、辞書とは海を渡っていく舟 

 辞書を編むことは、舟を編むということ。次に辞書を引く時は、今までと違った気持ちで引くことになるでしょう。