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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』:村上春樹|ふたつの世界の関係性は一体・・・

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 「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」のふたつの世界を舞台にした物語が、交互に語られていきます。小説の構成上、交互に描かれていますので同時進行的に語られていきます。しかし、同時に語られているから同じ時間軸で同時に起こっていることかどうかは分かりません。

  • どちらかが原因で、どちらかが結果なのか。
  • それとも同時に起こっていることなのか。

 このふたつの物語が、一体、どのように繋がってくるのか。全く予想も出来ない状態で描かれていきます。ただ、何らかの関係性があるのは間違いありません。 

 村上春樹独特の文体・表現・比喩・言い回しは、好みの分かれるところです。何かの暗喩なのか。単に主人公が見たこと・感じたことをそのまま書いているだけなのか。村上春樹の表現は、あまりに複雑に感じてしまいます。そして、主人公の冷静さも好みの分かれる原因かもしれません。冷静と言うよりは、気障に過ぎると言えるかもしれません。 

 物語中に起こる様々な事象の全てに意味を求めていくとなると、とても疲れる小説です。しかし、その意味を求めていくことも村上春樹の小説を読む醍醐味です。私が書く感想は、的外れに過ぎるかもしれません。しかし、小説の感想に正解はないものと信じています。村上春樹が伝えたいことを読み取れなかったとしても、それはそれでいいのではないかなと思います。自分勝手な解釈であっても何か得るものがあれば、読んだ甲斐があると信じたい。 

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の内容 

高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、“世界の終り”。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する“ハードボイルド・ワンダーランド”。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。【引用:「BOOK」データベース(上巻)】
〈私〉の意識の核に思考回路を組み込んだ老博士と再会した〈私〉は、回路の秘密を聞いて愕然とする。私の知らない内に世界は始まり、知らない内に終わろうとしているのだ。残された時間はわずか。〈私〉の行く先は永遠の生か、それとも死か?そして又、“世界の終り”の街から〈僕〉は脱出できるのか?同時進行する二つの物語を結ぶ、意外な結末。【引用:「BOOK]データベース(下巻)】 

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の感想

ードボイルド・ワンダーランド

 タイトルの順番とは逆ですが、まずは「ハードボイルド・ワンダーランド」からです。1985年に刊行された小説です。当時は、コンピューターや情報の重要性が一般に浸透している時代ではなかったと思います。そう考えれば、近未来を舞台とした物語と言うことになるのでしょうか。主人公である「私」の職業は、「組織」に所属する「計算士」です。「組織」に対抗する存在として「工場」があります。このふたつの存在は敵対関係にあり、情報を奪い合う敵対関係です。

  • 情報を守る方が「組織」
  • 情報を奪う方が「工場」

 「私」は情報を暗号化しデータを守る「計算士」。対して「工場」は「記号士」を使い暗号を解読し、情報を奪う。エージェント同士による闘いです。その情勢が、ハードボイルドと名付けられた所以かもしれません。現実世界を舞台にしているようでありながら、そこで起こる出来事には多くの非現実的な事柄があります。

  • 地下に生息している「やみくろ」の存在
  • 計算士が行う「シャフリング」
  • 老博士が研究を行う地下の研究所
  • 一角獣の頭骨 などなど。 

 あらゆる事象が、何らかの暗喩として存在しているのか。それを読み解くことは別にして、多くの事柄が「世界の終り」との繋がりに影響しています。現実的な世界の中で、「私」を中心に起こる非現実な出来事。その中で翻弄されていく「私」には、主体性をあまり感じさせない。自らの意思を発揮しようとする場面はあるにしても、大きな流れに逆らえずに自分の意志とは違う場所に行きついていく。この世界で、何を描こうとしているのか。「組織」と「工場」の争いなのか。その争いに巻き込まれ、翻弄されていく「私」なのか。自我であるはずの脳ですら自由に加工されてしまう状況なのか。 

 あらゆることが自分の意志と関係なく、誰かの思惑で動いていること。自分自身のアイデンティティを維持することが出来ない世界を描いているのではないだろうか。物事を始めた人間でさえ、予想も付かない方向に動き始めた時には止めることが出来ない恐ろしさ。何もかもが思い通りに動かない世界の不安定さを表現しているのでは。後半は「世界の終り」との関係が明らかになっていきます。 

界の終り

 非現実世界として描かれている「世界の終り」。もちろん、「ハードボイルド・ワンダーランド」も現実的とは言い難い。地上世界と地下世界に分けて考えれば、「ハードボイルド・ワンダーランド」の地下世界は非現実な物語です。それは別にして「世界の終り」は、最初から最後まで非現実的かつファンタジー的な要素で詰まっています。一角獣であったり、影であったり、夢読みであったり。なぜなら「世界の終り」が存在するのは、現実世界の「私」の深層意識の中なのです。空想というよりは無意識の中で作られた世界なのです。 

 壁に囲まれた世界に住む住人には心がありません。心がないことにより、安定=完全さが実現しているのです。心がないことにより、何故、完全さが実現できるのか。老博士の言葉で心について語られている部分があります。 

アイデンティティとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と言ってもよろしい。 

 アイデンティティを確立しようとすることにより、周りの人々と衝突が起こったり、周囲と違う行動様式が発生し、世界の安定が損なわれてしまうのかもしれません。そういうことであれば、心がなければ世界は安定する。 

安定した世界を維持するためには、住人は心を捨てなければならない。当然の帰結なのでしょう。 

 「世界の終り」では、心を「影」という実体を持つものとして表現しています。影が心を代弁する存在として描かれています。心の葛藤を、影の様子で描いているのかもしれません。心を切り離し、その死を待つ。心が完全に失われるのを待っている。非常に不安定な状況に「僕」は置かれているのです。影が自らの死の前に「世界の終り」から逃げ出そうと考えるのは、心がない完全な世界は完全であるがゆえに不自然な世界だということを「僕」が感じているからだと思います。 

 「ハードボイルド・ワンダーランド」での争い・奪い合い・性的な関係。それらが心が原因で起こっているとすれば、心のない「世界の終り」はあまりにも平穏で完全な世界に映ります。しかし完全な世界というのは、それで完結してしまいどこにも向かっていかない。ただ、その場に存在し続けるだけの世界に過ぎない。そのような世界で生きることに意味があるのかどうかということです。完全な世界は、人間が生きていくのに理想的な世界なのか。決してそうではないのでしょう。 

結末について

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の私は「世界の終り」に引き込まれたのか。「世界の終り」の僕は残ることを選択した。影がたまりに呑みこまれたことで、僕の心は失われることはなかった。では、影は一体どこに行ったのか。 

 「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」の時系列の考え方によって変わるかもしれません。どちらも「私」と「僕」は、同一人物だという前提です。 

ハードボイルド・ワンダーランド ⇒ 世界の終り

 この時系列であるなら、現実世界の「私」が深層意識の「世界の終り」に囚われたことで、「僕」の生活が始まります。そして、影が現実世界に戻ろうとするのは、「僕」が現実世界の「私」へと戻ろうとしているのだと思います。結局のところ、「僕」は戻らず影だけが戻ります。では、現実世界の「私」に戻ることが出来たのか。影が戻ることにより、「私」と「僕」の両方が存在することになるのか。そのことについて、私の考えはまとまりません。  

ハードボイルド・ワンダーランド = 世界の終り

 同じ時系列で進行している世界であるなら、現実の「私」と深層意識下の「僕」が並列して存在していることになります。「私」と「僕」は同時に存在していながら、直接的に干渉することはできない。ただ、影響し合ってはいるのでしょう。「僕」の心が失われていくことで、現実世界の「私」の意識が深層意識である「世界の終り」に囚われていく。「私」の意識がなくなるリミットが、「僕」の心(影)が死ぬ時なのでしょう。「僕」が無意識下の世界で心を取り戻そうとしているのは、現実世界に留まろうと考えているからだと思います。結局、「僕」は世界の終りに留まることになります。ただ、心を失わずに。
 影を逃がすことにより、現実世界の「私」の意識は「世界の終り」に囚われなかったのか。「僕」は責任を取るために「世界の終り」に残ると決意しています。その決意の元で残っておきながら、現実世界での意識も損なわれないというのは都合が良すぎると思われます。やはり、「私」は世界の終りに囚われたと感じます。では、「影」はどうなったのか。もしかしたら、現実世界の「私」がいずれ意識を取り戻すことが出来る可能性を示唆しているのかもしれません。 

 私は、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」は、同時に進行していると受け取っています。バッドエンドなのか、ハッピーエンドなのか。それも、読み手の感じ方かもしれません。